M.M ひぐらしのなく頃に 祟殺し編


 この「ひぐらしのなく頃に 祟殺し編」は、先に発売された「ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編」「ひぐらしのなく頃に 綿流し編」の続編となっております。その為レビューには「ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編」「ひぐらしのなく頃に 綿流し編」のネタバレが含まれておりますのでご注意願います。

・「ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編」のレビューはこちら
・「ひぐらしのなく頃に 綿流し編」のレビューはこちら

※このレビューにはネタバレしかありません。本作をプレイした方のみサポートしております。


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以下はネタバレです。見たくない方は避難して下さい。























































































シナリオ BGM 主題歌 総合 プレイ時間 公開年月日
9 8 - 87 7〜8 2017/7/15
作品ページ サークルページ



<「大切なのは「起」が無いこと」であるのなら、この作品における「起」は何の事なのでしょうね。>

 「綿流し編」をプレイした後に自分は「そもそもこの時間軸の違いは何なのか。」という疑問を提示しました。「鬼隠し編」での時間軸がまるで無かったかのように展開される「綿流し編」、始めは雛見沢村の歴史やオヤシロさまの祟りについて肉付けする為に用意された分岐かと思いました。そして今回プレイした「祟殺し編」も始めは自分の予想通りに新しい時間軸でシナリオは進み、また何かしら新しい情報が付加されるのだろうと思っておりました。ですがそうはなりませんでした。それどころか、この「ひぐらしのなく頃に」という作品の世界観そのものを見直さなければいけない展開となりました。自分には、この正解率1%の壁は突破出来なさそうです。

 今回も「祟殺し編」をプレイし終えての疑問を整理していこうと思います。と言いましても疑問は沢山ありますので、大きく気になった部分だけピックアップしようと思います。

・前原圭一は何者なのか。
・オヤシロさまの目的は何なのか。

 もう結局はここに集約されるのだと思います。ついに「前原圭一」という存在が同じ時間軸でクロスオーバーしてしまいました。決死の想いで北条鉄平を殺した圭一、誰にもバレないように、北条沙都子を救う為に、そして再び平穏な生活を取り戻すために奮闘しました。ですがその先に待っていたものは何だったでしょうか。平穏な生活どころか、狂ってしまった日常でした。自分ではない自分がいる、殺したはずの人間が生きている、そして大切に思っていた存在がどんどん離れていく。絶望とはこういう事を言うのかも知れません。何のために自分は人を殺したのだろう、何が欲しくて鬼になったのだろう、どうして見知った人が消えていくのだろう。これだけの仕打ちを受ければ、自分が皆を祟り殺したと思っても仕方がないかも知れません。諦めと言いますか、どこか達観したような圭一の様子が見ていられませんでした。

 そして、もうこの作品はファンタジー要素のない純粋なミステリーや歴史モノでない事は明白です。ここまで明確にクロスオーバーするなんて、とても量子力学で説明できるものではありません。「祟殺し編」で北条鉄平を殺した圭一の裏で綿流し祭りを楽しんでいたのは「鬼隠し編」の圭一でした。私は「鬼隠し編」「祟殺し編」と「綿流し編」で明確に線を引けると思っております。一つは足音の存在、もう一つは圭一そのものの変貌です。「鬼隠し編」「祟殺し編」では圭一の後ろにいつの間にか足跡が忍び寄り、それによって正常な精神が保てなくなっておりました。同時にこの2編でのみ圭一は人を殺しているのです。「綿流し編」とは明らかに雰囲気が違います。何よりも「鬼隠し編」「祟殺し編」「綿流し編」の3編がクロスオーバーする事は出来ません。圭一以外の人物の行動に矛盾が生じます。特に富竹は出店で射的をしている部分と祭事殿の前で見張りをしている部分が重なりますからね。まあ、どうして「鬼隠し編」「祟殺し編」と「綿流し編」でこうも雰囲気が違うのか説明できる訳ではありませんけどね。

 そう考えますと、圭一の後ろに忍び寄る足音の正体はそれぞれ「鬼隠し編」「祟殺し編」の圭一だったのではないかと思ってしまいます。この2編だけクロスオーバーしていたとしたら、お互いがお互いを重ねていたんですねきっと。もちろん何故圭一だけがクロスオーバーするのかは分かりません。何よりも圭一が「願った」通りに人が死ぬ理由ももちろん分かりません。ちなみに圭一が願う事で人が死ぬという関連付けは重大なヒントになりました。「鬼隠し編」「綿流し編」の最後で圭一は「どうか、真相を暴いて下さい。それだけが……僕の望みです…。」と望みました。だからこそ、圭一は過去に戻り別の時間軸を生きることが出来たのではないでしょうか。同じ時間軸で違う存在がクロスオーバーする、自分の祟った人が死ぬ、まるで神様の様ですね。

 神様と言えば、雛見沢村には1つ神様がいましたね。オヤシロさまです。「綿流し編」で明らかにされた雛見沢村の歴史とオヤシロさまの存在、それだけを見れば昔の風習として一蹴出来ると思います。ですがそう出来ない事は皆さん同様だと思います。こういう推理モノであまり突飛な話はしたくないのですが、私は圭一こそがもうオヤシロさまそのものだと思うしか出来ません。時を越える力を持つ存在、「祟殺し編」で唯一の生存者である存在、火山性ガスが充満しても死なない存在、もはや神様でなければ何なのでしょうか。作中では大石さんがオヤシロさまの使いであったり古手梨花が御八代さまと言われてましたが、その2人も最後は死亡もしくは行方不明になってました。それも割と唐突にです。特に古手梨花なんて「綿流し編」では園崎魅音に殺されてましたからね(これはまだ真偽の程が分かりませんが)、とても神様とは思えません。

 では、そうだとしたらオヤシロさまの目的は何なのでしょうか?「綿流し編」で明らかにされたオヤシロさまのルーツ、それは人と鬼の橋渡しをする存在でした。鬼という存在が本当にいるかは実際のところ分かりません。園崎魅音の変貌した姿が鬼なのでしょうか。もしかしたらあの火山性ガスの正体が鬼だったのではないでしょうか。古い伝承の正体は意外な存在だったりしますので、私は正直鬼が実在しているとは思っておりません。それでもオヤシロさまという存在を信じるのは個人の自由であり、そうした信仰が文化となり雛見沢村に根付く事はむしろ喜ばしい事だと思っております。だからこそ、圭一がオヤシロさまだとすると矛盾しかないのです。あんな子供で利己的な圭一が神様なんて、他の誰が肯定しても自分が肯定しません。信念に一貫性がないのですから。逆に、オヤシロさまは本当に古手梨花で、圭一はそれに対抗する存在なのでしょうか。……いやここまでくるともう妄想ですので辞めにしましょう。

 今回の「祟殺し編」だけを見ても説明できない点が存在します。その最たる例は圭一の北条鉄平殺しです。仮に何らかの作用で殺人が無かった事にしたとしたら辻褄が合わなくなります。確かに死体はありませんでした、ですが同時にバットも無いですしシャベルは汚れてますしランタンはそのままですしバイクはありません。状況証拠はそのままで死体のみ無いのです。中途半端だと思いました。他にも、火山性ガスで確かに多くの人が死んでしまいましたが肝心の北条沙都子と北条鉄平の死体は見つかっていないようです。特に北条鉄平については圭一が祟り殺したい一番の人間のはずでした。その死体が見つかっていないんです。これも圭一が祟り殺したいと思った人は皆死ぬ、という部分と矛盾します。この些細な疑問が解決されることはあるのでしょうか。

 圭一が望んだのは当たり前の日常でした。誰も不幸にならない、長閑で平和な雛見沢村でした。結局のところ、圭一が動けば動くほどその平和な日常は遠ざかっていくのでしょうか。おつかれ会でも言っていた通り、全ては因果であり何もしなければ事件は起こらないのでしょうか。だとすれば、この殺人事件の原点であるダム建設計画から無くさなければいけませんね。いや、むしろ雛見沢村の風習そのものでしょうか。作中で圭一のお母さんが言っていた「大切なのは「起」が無いこと」という言葉、これこそがこの作品の本質を掴んでいるように思えてなりません。実は、「起」に気付いていないだけで事件は起きているのかも知れませんね。だとすれば「起」とは何でしょうか。圭一でしょうか。オヤシロさまでしょうか。それ以外の何かでしょうか。もう答えは提示されている筈なんですよね。是非矛盾のないように解決して欲しいです。


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