M.M ファタモルガーナの館 -Another Episodes-




シナリオ BGM 主題歌 総合 プレイ時間 公開年月日
8 10 9 A 7〜8 2015/10/24
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 この「ファタモルガーナの館 -Another Episodes-」は先に発売された「ファタモルガーナの館」のファンディスクとなっております。その為レビューには「ファタモルガーナの館 -Another Episodes-」を含めたネタバレが含まれていますので、ネタバレを避けたい方は避難して下さい。

「ファタモルガーナの館」のレビューはこちら

※このレビューにはネタバレしかありません。前作と本作の両方をプレイした方のみサポートしております。


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以下はネタバレです。見たくない方は避難して下さい。





















































































<可能性を信じてみたくなるのが人というもの。それはファタモルガーナを恐れず船を漕ぎ出す事と同じ。>

 私ですが、「ファタモルガーナの館」本編をプレイし終わって直ぐに「そもそもファタモルガーナって何の事だ?」と思い調べてみたのです。ウィキペディアによりますと、ファタモルガーナとは英語圏でモーガン・ル・フェイと呼ばれており、アーサー王物語に登場する女性でアーサー王の異父姉にして魔女として知られているようです。なるほど確かに「ファタモルガーナの館」そのものだなと思ったのですが、実はもう1つ意味がありました。それは「蜃気楼」です。英語ではミラージュと呼ばれており多くの日本人にとってこちらの方が一般的かも知れませんが、ファタモルガーナという俗称はヨーロッパ圏を中心に呼ばれております。蜃気楼、なるほどこちらも確かに「ファタモルガーナの館」そのものだなと思いましたが、この想いが今回「ファタモルガーナの館 -Another Episodes-」をプレイしてより強くなりました。

 2年半前にファタモルガーナの館をプレイして私が一番に思った事は「人の気持ちのズレはボタンのかけ違いの様なもの、それはお互いが歩み寄る事で解消出来る」でした。この作品の特徴として、物語に登場する人物の印象がプレイ前とプレイ後で大きく変わるということです。他人の心というものは本質的に理解する事は不可能であり、自分の本当の気持ちは自分でしか分からないものです。特にこのファタモルガーナの館はそうした人間らしさに溢れた人物ばかり登場し、自分の意見を押し付けたり、相手の話を聞かなかったり、勝手に勘違いしたりといつまでも自分と相手の気持ちが合致しません。だからこそ様々な視点で人物を見る事が大切であり、一方向からの視点では相手の事を完全に理解する事は出来ないのです。ファタモルガーナの館はそうした歯がゆい部分を長く丁寧に描写しており、その徹底振りが多くのファンを生み出したのだろうと思っております。

 今作のメインエピソードはヤコポとモルガーナの物語でした。既に本編をプレイされている方々は、プレイ始める前からこの物語にハッピーエンドは無い事を知っております。またあの理不尽で残虐な状況を指をくわえて見るしかないのか、と思った人もいたかも知れません。事実このエピソードは本編最終章のようにミシェルの介入がありませんでしたので、どうしようもなく理不尽にモルガーナは死んでしまいました。どうしてこうなってしまったのか、ひとえに登場人物全員の気持ちのすれ違いが原因でした。本当であれば恨まなくていいのに恨んでしまった、信じることができたのに信じられなかった、時代や情勢が原因とはいえ誰が見ても理不尽な展開。私も途中悔しさで歯ぎしりしながらプレイしてました。

 ですがそれでも少しプレイヤーにとって救われる展開もありました。それは領主であるヤコポの苦悩と葛藤が見えた事、そしてモルガーナが3年間の生活を愛おしく思っていた事です。ヤコポはただの残忍な人物ではありませんでした。傍から見たら十分残忍ですが、それは一方向から見た場合であり私たちはそうではない事に気付けました。モルガーナもただ理不尽な仕打ちを受けただけではありませんでした。傍から見たら十分残忍ですが、それは一方向から見た場合であり私たちはそうではない事に気付けました。彼らにも縋れるものはあったのです、最後はそんな幸せな想いを胸に秘めて死を迎えました。傍から見たらバッドエンド、ですが本人にとっては必ずしもバッドエンドではなかったかも知れません。本当の事は分かりません。後は全て本人のみぞ知るのです。

 では作品中の登場人物たちは本当に相手の真の気持ちを知る事は出来ないのでしょうか?たとえ知る事が出来なくても、少しでも相手との距離を近づけることは出来ないのでしょうか?私は前者は不可能でも後者は可能なのだと思います。舞台裏でミシェルが「可能性を信じてみたくなるのが人というもの」と言ってました。私、この言葉こそ今作で一番言いたかった事なんだろうと思っております。人を信じるという事はとてもあやふやな事であり、勇気がいる事です。それはまるで海に浮かぶ「蜃気楼」を信じて船を漕ぎ出す事と同じです。昔の人であれば蜃気楼を見てもそれを信じるのではなくむしろ恐れの対象と捉えた事と思います。ですが現代の私たちはそれは光の屈折によるものである事が分かっており、船を漕ぎ出せば水平線の彼方にある街にいつかたどり着けます。大切なのは蜃気楼の景色をただ恐れて見ようとしないのか、それとも勇気を持ってそれを解明しようとするかどちらを選ぶのかという事。そしてもしかしたら蜃気楼の先には本当に街があるという可能性を信じ、確かめてみるという事です。

 もしヤコポとモルガーナがお互い本当の気持ちを理解していたら、彼らが夢見たどこか遠い田舎でささやかな平和に包まれた生活を送る事が出来たのでしょうか?もし貧困層のかつての仲間が最後までヤコポを信じていたら、モルガーナは死なずに済んだのでしょうか。それは誰にも分かりません。それこそまるで蜃気楼のような景色です。ですがその選択は二度と取り返しのつかないものでもありました。そしてその選択を迫られているときはそんな未来の結果なんて分かりっこないのです。まさに蜃気楼ですね。選んでからはもうなるようにしかなりません。後悔もするかも知れません。彼らのように死が待っているかも知れません。例え悲劇のみが待っていたとしても、最後の瞬間まで可能性を追いかけてい続けたいと思いました。


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