M.M transit -an Extrasolar human(s)-




シナリオ BGM 主題歌 総合 プレイ時間 公開年月日
9 8 8 88 10〜12 2016/11/30
作品ページ サークルページ



<この作品を通じて、現代のこの生きにくい社会でどのように生きていけば良いのかのヒントを探してみては如何でしょうか。>

 この「transit -an Extrasolar human(s)-」という作品は同人サークルである「macrophage」で制作されたビジュアルノベルです。macrophageさんの作品をプレイしたのは今作が初めてで、触れた切っ掛けはCOMITIA117で島サークルを回っていた時でした。COMITIA117は夏コミから一週間後というスケジュールであり、加えてノベルゲームサークルの数が少ない事もありましたので全てのサークルを見て回る気持ちで参加したのですが、その時に手にとったのが今回レビューしている「transit -an Extrasolar human(s)-」です。淡い色使いの女の子のジャケットが印象的であり、加えてディストピア的な舞台設定が自分の好きなジャンルという事もあり是非プレイしてみようと思いました。総テキスト数800kB以上という事で長期のプレイを想定しておりましたが、その世界感とそこで描かれるテーマに惹かれてしまい時間を忘れて一気にプレイしてしまいました。

 舞台は現代の日本と殆ど同じ世界。ですがこの世界では人間の感情の度合いを数値化するシステムが導入されております。内観係数と言いまして、安定値に対して下回っているのはネガティブな思考、上回っているのはポジティブな思考であり、その変化幅が敷居値を超えると人はFO(フリークアウト)してしまいます。FOが起きると人は人ではなくなります。それは他人を傷つけたり、逆に自分を傷つけたり様々であり、どちらも人の死を呼び寄せる現象です。その為この世界では人間は常に内観係数を測定されており、とりわけ敷居値を超えそうになった思春期の少年少女は特別な学校で保護され内観係数が安定するまで共同生活を送る事になります。主人公である七原雅(ななはらみやび)もまたそんな内観係数が敷居値を超えそうになった少年であり、三ツ葉第三学校という学校の中で生活しております。人の心とは何かを考える物語がここから幕を開けるのです。

 人間らしさとは何でしょうか?私は感情を持っている事だと思っております。勿論植物やその他の動物が感情を持っていないとは思いません。ですが人間は植物やその他の動物よりも感情が豊かな生き物だと思っております。笑ったり怒ったり悲しんだり、そんな姿こそその人を印象付ける要素であり個性です。ですが現代社会において自分の感情を素直にありのまま外に出すことは残念ながらとても難しい事です。組織で行動してる以上自分の主張は制限される事になり、協調性を持ちながら人とコミュニケーションしていかなければいけないのです。まるで機械の様に命令に従っているだけの様です。生きる為に人間らしさを捨てる、そんな理不尽で矛盾している社会が現代の日本の象徴となっております。

 そういう意味で内観係数というものが現実でも存在したら非常に楽だと思いますね。今現在誰が安定していて誰が不安定か数値化されて分かるのですから。安定していればそのまま生活すれば良いし、不安定なら休みを取ればいいのです。健康診断で血圧や中性脂肪などの値が数値化されるように感情の度合いも数値化される、現代社会にとって実に合理的でありシステム的に生きる事が出来てしまいます。そして、敷居値を超える程内観係数が不安定になってしまった人がいれば何らかの方法で隔離してしまえばいいのです。現代社会にとってのある意味での理想郷。きっと犯罪件数も少ないでしょうし犯罪者予備軍もリストアップ出来るでしょう。誰もが適切に生きることが出来るのです。

 ですが、そのような内観係数が存在する世界だとしたらどのように人は人と触れ合うことが出来るのでしょうか。自分の迂闊な発言で相手の内観係数を下げてしまったら?そしてその事を引きずって自分自身の内観係数をも下げてしまったら?逆に上げてしまうかも知れませんね。そんな事を考えながら本当にコミュニケーションが取れるのでしょうか。私だったらとりません。腫れ物には触れない生き方を貫くと思います。そうしないと面倒だからです。内観係数は安定している方が良い。つまり心をざわつかせなければ良いのです。それって、人間らしさを捨てる事だと思いませんか?生きていて楽しいのでしょうか?人の領分に踏み込む事は悪い事なのでしょうか?この作品はそんな人と人との距離や自分の存在について悩み葛藤する少年少女が登場人物です。三ツ葉第三学校という閉じた世界の中で共に生活する少年少女の物語。是非皆さんも彼ら彼女らの葛藤を通して、この現代社会でどのように生きていけば良いのかのヒントを探してみては如何でしょうか。

 プレイ時間は私で10時間30分程度掛かりました。途中少しの分岐がありますが多くが共通ルートであり、後半の選択肢で幾つかのエンディングに分かれます。世界感が壮大でありまた人間模様について非常に丁寧に描いた作品ですので、物語内での事象の経過よりも会話のテキスト割合が大変多くなっております。是非結論を急ごうとせず、自分だったらどのような選択をするのか、今彼らは何を心配しているのか、この世界のあり方は正しいのか間違っているのか、などを考えながら読んでみて下さい。あとシステム面ですがやや痒いところに手が届かない部分があります。BGMがそもそもとても小さかったり、既読スキップが作用しなかったり、バックログが見難かったりといったところです。だからこそテキスト一文一文を噛み締めながら読んでみて欲しいですね。不器用ながらも必死になって答えを探そうとする彼らの生き方は、必ずや皆さんプレイヤーの心に残ると思います。非常にオススメです。


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以下はネタバレです。見たくない方は避難して下さい。








































<自己を確立し相手と適切な距離感を保てる事、それが本当の意味での彼らの安寧。>

 この作品を象徴する言葉に「安寧」があると思います。主人公七原雅が目指したのもまた安寧な生活であり、誰もが目標としていたものでした。ですが、最後までプレイしてみて結局それぞれが思い描いていた安寧とは全然異なる結末になってしまいましたね。ですけどきっとそれで良いんです。幸せの形は人それぞれであり、それは決して他人によって強制されるものではありません。この作品は、自分自身にとっての安寧はどの程度なのかを探す物語だったと思っております。

 安寧という言葉を辞書で引いてみました。意味は、

@:平和で、安らかなこと。
A:冬のこと。
(出典:漢字源第五版)

だそうです。この作品では当然@の意味ですね。加えてニュアンスとしては「世の中が穏やかで安定していること」に使うみたいです。そしてこの「世の中に対して」という部分が安寧という言葉の最も重要な部分だと思っております。安心や安定、安泰など似たような言葉は幾つもありますが、そのどれもが個人に対しても使う事が日常的です。ですが安寧という言葉を日頃個人に対して使っている場面はあまり見かける事はありません。何が言いたいのかといいますと、彼らが目指してきた安寧が必ずしも自分自身の安寧に繋がる訳ではないという事です。

 三ツ葉第三学校の中で内観係数の安定とFOの排除の考え方を学んできた雅たち。本来であれば学校生活の中で内観係数を安定させそのまま何事もなく卒業できるはずでした。ですがそうはなりませんでした、内観係数を気にするあまり、相手の懐に踏み込めず距離感を測れなかった為、安定させるはずが逆にバランスを崩してしまったのです。結果雅はそれによる自己責任に苛まれ一度はドロップアウトしてしまいました。不思議ですよね。雅は安寧を誰よりも望んでいたのにその自分がいの一番にFOしてしまうのですから。その後良輝が卒業しブレードランナーの存在を知る事で彼らの生きる目的が定まりました。ブレードランナー制度を無くする事、それが彼らの安寧に繋がるはずでした。ですが物語はそこでは終わらなかったのです。ブレードランナー制度の改正まで漕ぎ着けたのに、雅の心は全然安寧ではなかったのですから。最後まで読んだ皆さんは、もう雅が何を間違っていたのか分かりますね。安寧って、相手に求めるのではなく自分に求めるものだったんです。

 幼い時に姉と母を支える為に己を犠牲にして生き続けた雅、その考えはずっと彼の心の原点として残り続けました。ですがそれは逆に自分の存在意義を周りに依存しているという事です。物語最後でも「雅のソレは、もはや機構、アイデンティティとは違う」と言っておりました。雅はアイデンティティを確立できてなかったんです。自分は他人を助ける事でしか自分を見出せない。自分は自分だなんてとても思えない。実際はこの事にすら気づいていなかった雅。だからこそ彼にとって誰かに頼られる事が安寧でした。誰かに頼られれば三ツ葉第三学校に居続けてもブレードランナー制度が覆らなくてもシェアハウスが続いても良かったんです。そこには相手を気遣う気持ちすら入る余地はなかったんです。莉子ED直前でも「私たちに救済を「強制」する……偽善者なんですよね?」ととても厳しい言葉が帰ってきました。もはや機構とは言い得て妙。この事を解決せずに、雅の安寧は一生訪れませんでした。

 では雅に安寧をもたらすにはどうすれば良かったのでしょうか?今まで行ってきた偽善的な救い=実相救済を辞めれば良いのでしょか。そうではありませんでした。というよりも実相救済を辞めるのは雅という存在を辞めるという事。そんな事を考えてはいけませんね。雅が行った事、いや雅が気付いた事は実相救済の形を変える事でした。グランドED直前で膝を擦りむいた女の子。当然雅は手を差し伸べます。ですが女の子はそれを拒否し、自分で歩き出しました。この時雅は気づきました。見送るのも立派な救済なんだな、と。自分の感情を押し付けるだけでは駄目だったんだ、と。スっと肩の力が降りた感覚だったと思います。そこまで無理する必要はなかったんです。自分で立てるのであればそれを見送るのも大切なこと。そうでなければ相手に蟠りが残りますからね。別に自分が助けないからといって相手との繋がりが途絶えるわけではなかったのです。ちょっと寂しいですけど、それもまた適切な人と人との距離感のつくり方でした。

 内観係数やFOといったものに縛られ思考停止させられていた三ツ葉第三学校の皆は、誰もが相手とそして自分との距離感のつくり方を悩んでおりました。それはまるで天にある星たちが全て孤独に光っており繋がりを感じられない様子に似ておりました。もし星たちが例えば太陽系として繋がっていれば、それだけでとても安心ですからね。太陽系とは英語で「extrasolar planet」と表記します。タイトルにある「an Extrasolar human(s)」とは恐らく太陽系の様に繋がっているようで、実はそれぞれ本当は孤独を抱えていたという意味なのかなと思っております。humanの後ろに付いた(s)が特徴的ですね。複数に見えて実は単数、いや逆に単数に見えて実は複数だったのですから。作中でも「星と人との距離は、人と人との距離に似ている」と言っておりました。同じだったんですね。誰もが孤独を抱え、それでも他人と繋がりたくて、でも距離感が掴めなくて、自分をどう表現すればいいか分からない。一人一人が空に浮かび星のよう。でもちゃんとそれを見てくれる存在は、雅のように必ず存在しますよ。

 最後ブレードランナー制度が改正され、シェアハウスにいたメンバーは一人また一人と自分だけの生活へと旅立って行きました。シェアハウスという太陽系から離れる時でした。もしかしたらもう会わないかも知れません。会おうと思ってもとても遠いところに行ってしまい叶わないかも知れません。本当に星のようですね。でも大丈夫です。彼ら彼女らは人と人との距離感を見つける事が出来たのですから。現代社会という生き難い世の中だからこそどれだけ自分という存在を認識できるか、そして自分の中で守るべき境界を理解し相手と適切な距離感を維持できるか。この事が達成できたとき、本当の安寧は訪れるのだと思いました。ありがとうございました。


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