M.M 夏のさざんか




シナリオ BGM 主題歌 総合 プレイ時間 公開年月日
6 7 - 71 1〜2 2016/4/27
作品ページ(R-18注意) サークルページ



<先を予測する事よりもつばきの心情に寄り添いながらテキストを読み進めて欲しいですね。>

 この「夏のさざんか」は同人サークルである「ゆにっとちーず」で制作されたビジュアルノベルです。ゆにっとちーずさんの作品では過去に「パコられ」や「アメトカゲ」をプレイさせて頂き、人間の感情の良いも悪いもストレートに書いたテキストと描写が印象に残っております。言ってしまえば暗澹な雰囲気や残酷な描写を包み隠さず表現しているものが多く、人によっては嫌悪感すら抱くかも知れません。まさに同人だからこそ表現できたものであり、是非一度は触れて欲しい世界観だと思っております。今回プレイした夏のさざんかですが、主人公がノイローゼで精神病棟を尋ねるというスタートからゆにっとちーずさんらしさが光ります。自身の人生観や価値観について考えさせられる物語が幕を開けるのです。

 主人公である冬野つばきは最近不眠に悩んでおりました。アルバイトで生計を立てている彼女にとって不眠は一大事です。そもそも彼女には他に頼れる人がおりません。自分で働かないと生きることすら出来ないのです。そんな彼女ですので自分の意見を主張することが苦手で周りに指示される事を大変好みます。アルバイトも食品工場での加工業やコンビニでのレジ打ちなど単純作業や長時間労働を好むのです。周囲からもある程度の評価を得ている彼女ですので、不眠症を完全に治すために一時的に休養という形で社会から隔離された閉鎖病棟へ入院する事になりました。誰も自分の事をしらないはずの病棟。そこで何故か自分の事を知っている青年と出会います。この青年との出会いが自分の運命を揺るがす存在となる事を、つばきはまだ知りませんでした。

 ゆにっとちーずさんの作品に共通しているのですが、とにかく一人称の視点での描写が丁寧ですね。自分の事を病気だと思っていないつばきは、始め精神病棟への入院を勧められた時に非常に嫌悪感を覚えます。ですが嫌悪感を覚えてもそれは心の中でのみに留め表に出したのはやんわりとした拒否。結果として押し切られる形で入院するのですが、そこでも精神病棟に対する先入観や周りの患者に対する偏見を持っており、それを表に出すまいと意識して言葉の節々ににじみ出てしまう危うさが絶妙です。つばきのある意味人間的な姿がバランスの良いテキストで表現されており、プレイヤーの方も状況判断し易いのではないでしょうか。

 そして舞台が精神病棟という事で周りの患者の方も普通の方ばかりではありません。うつ病であったり逆に躁病であったり、ひどくさみしがり屋だったり逆に何にも興味を持たなかったりと様々な人が同じフロアで生活しているのです。勿論トラブルもあります。新しく入ったつばきにとってはどう振る舞えばいいか分からない環境です。そしてそんな環境だからこそ淡々と仕事をする看護師や医師の姿も印象的ですね。いちいち付き合ってはいられないのです。ある程度の距離感を保ちつつ引くときはサッと引く、非常にリアルだと思いました。この辺りの人間描写も注目ですね。

 プレイ時間ですが私で1時間40分程度掛かりました。選択肢も僅かしかありませんので総当りで全てのEDにたどり着けると思います。と言うよりも、選択肢は主人公つばきとキーパーソンである四方木宰に関わる部分しかありません。彼とどのような距離感を保つのかを明確にすれば、誰でも一発でTRUE ENDにたどり着けると思います。つばきの不眠の原因と心の奥底に抱える闇はどんなものか、そしてそれを溶かしてくれるのは誰なのか。先を予測する事よりもつばきの心情に寄り添いながらテキストを読み進めて欲しいですね。


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以下はネタバレです。見たくない方は避難して下さい。








































<普通とか特別とか、そんなものは周囲の環境でいくらでも変わるものです。>

 アイデンティティは自分が自分である事を確立するために思春期に獲得するべき課題だとエリクソンの心理社会的発達理論で論じられております。自分がどういう人間であり他人とはここが違うと明確に分かっている事は自分自身の意志の問題に直結し、物事を決断する上で最も大切な事だと思っております。それが欠落した人間にとって、自由や自己主張というものは最大限の苦痛であり誰かに束縛されたり指示される事の方がよっぽど楽です。この物語は、つばきが本当の意味でアイデンティティを確立する為のステップだったと思っております。

 つばきも頭の中では分かっていたのです。自分と父親との関係は異常であると。でもつばきにとって信じられるのは父親しかいなかったのです。父親との関係が壊れるくらいなら自我なんていらない、当時のつばきにとって自分という存在は父親そのものだったのです。母親ももはや母親ではありませんでしたからね。ただ自分と血が繋がっているだけの他人、もっと言えば父親を巡るライバルでした。それでも父親は自分を選んでくれました。自分を選んでくれる、自分に指示してくれる、そんな存在をつばきが拒否出来るはずがありませんでした。

 だからなのでしょうね。つばきが父親の通帳と印鑑を持って逃げ出し、一人暮らしを始めた瞬間自分というものの存在が分からなくなったのは。自分という存在は父親そのもの。その父親がいなくなれば、それは自分という存在がいなくなるも同様でした。その為何がしたいかも持っておらず、とにかく生きる為に単純作業のバイトを行う事になります。働いているうちは何も考えなくて良いですからね。普通であれば単純作業の連続は飽きるものです。ですがつばきには飽きがありませんのでただ働いている事が一番だったのです。それでも心の奥底に閉じ込めた父親との思い出が見え隠れし、それが不眠症に繋がり今に至っております。実に普通ではない半生を送ってきたわけです。

 そしてこの作品では普通とはなんぞやという事についても語っておりました。結局のところ、普通というものは自分の周りで多数の人が行っている事です。だからこそ、自分の周りが例えば父親しかいなければ父親と同じ行動が普通であり、精神病棟に入院すればその中でのコミュニティが普通になるのです。普通とか特別とか、そんなものは周囲の環境でいくらでも変わります。絶対的なものではないのです。そして社会的に普通かどうかという事を自分で判断するにはどうしても経験が必要です。つばき程度の経験ではそんなものは語りえないんですね。本当に不安定。精神病棟で唯一まともだと自分で思っていても、それこそが実は井の中の蛙で周りのどう思われているのか分かったものじゃありませんね。

 そんな檻に囲まれたようなつばきを宰が開放してくれました。宰はつばきに「我を通すことの嬉しさとつらさをしってから、誰かのいいなりになりなさい」と言いました。加えて「自由の重さと喜びを君に知ってほしい」とも言いました。つばきには絶対的に社会的経験が足りません。そして人との出会いも足りません。ですがつばきはまだまだ若いです。宰がつばきを開放してくれたおかげで、やっとスタートラインに立つ事が出来たんですね。つばきにとって今後今まで以上の苦労が押し寄せることだと思います。それでも宰と共に慎ましくも少しずつ前に進んで行く事を願いますね。ありがとうございました。


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